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乳房

乳房』池波 正太郎, 文春文庫, 2008年2月


鬼平犯科帳シリーズで活躍した長谷川平蔵に再びこの小説で逢うことができた。シリーズ全24巻を読み終えてしまった今、鬼平犯科帳の世界から離別するにあたって、いまいちど鬼平の小説に戻って味わうことが出来るのは一読者として非常に嬉しい。妻の久栄も健在だし、平蔵を慕う同心たちや密偵も登場する。

鬼平こと長谷川平蔵の推理力と采配はこの小説でも健在だ。だが、この小説ではあくまで脇役である。正しい「お盗(つと)め3か条」を律儀に通す、芯の通った職人気質の盗賊たちさえも、一人の女性を引き立てるための背景にしか過ぎない。

最初の男から「不作の生大根をかじったような」と言われたひと言に、お松はよほど傷ついてしまったようだ。殺人という人生最悪の事態を招いてしまって以来、お松の運勢は、逆に、向上する一方なのだが、お松はそれに気付こうともしない。長次郎や、徳兵衛やその片腕の男たちが、お松に良く当たってくれるのは、お松に元から備わっている美徳が反射して跳ね返ってきたものだと認めるのがお松は怖い。それほど自信を無くしてしまっている。最初の男から浴びせられたひと言と、殺人の負い目が、自らを萎縮させている。

池波正太郎は、じっくり長い時間をかけてお松を立ち直らせる。その描き方がなんとも滋味に溢れる。

不幸のどん底にあって自信を喪失したお松に、いきなりシンデレラの物語を用意したのでは白けるだけである。もしそんな話であれば、奉公先の娘お千代を陰でひそかに妬んでいたときの意地の悪いお松の一面が顔をもたげてきたことだろう。「毒には毒で」とばかりに、裏の世界の人間を登場させ、お松は自分でも何が何だか分らぬ間に一所懸命に、流されつつも生きているうちに、ゆっくりと、浄化されていく。

この小説では事件の成り行きも、盗賊の話も興味を引かない。筋の展開さえ、どうでもいいやと思わずにいられない瞬間が訪れる。松浦屋を訪れたお松に自宅の商いの様子を見せ、また、実直な主人を慕う従業員の振る舞いが、何も言わなくともお松に多くを伝えている。やむにやまれず人びとが生きてい中で、その無心の努力と善意が報われて自分に跳ね返ってくる幸福をあたたかい眼で見つめる作者の視線をひしと感じる瞬間である。

誠実な松浦屋の熱意がお松を動かす。だが、それはお松が自らの罪を忘れて甘い幸福に浸りたいがための独善からではなかった。ここが池波正太郎のうまいところ。

自らの罪を認め、引き受けつつ、それを乗り越えて、新しい課題を自らに課し、世界を切り拓いていかんと決意をするお松の姿は、宗教的な神々しさすら感じる。ドラクロワがフランス革命を題材に「民衆を導く自由の女神」で上半身を露にしながら前へと突き進む女性を描いたが、あの女性を思わせる強さがお松には備わっている。池波正太郎の意図をも超える女性の強さ、したたかさこそがこの小説の真のテーマである。





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Kiankou 書評: 池波正太郎氏の著作

『鬼平犯科帳 1』文春文庫, 新装版, 2000年4月
『鬼平犯科帳 2』文春文庫, 新装版, 2000年4月
『鬼平犯科帳 3』文春文庫, 新装版, 2000年4月
『鬼平犯科帳 4』文春文庫, 新装版, 2000年5月
『鬼平犯科帳 5』文春文庫, 新装版, 2000年5月
『鬼平犯科帳 6』文春文庫, 新装版, 2000年5月
『鬼平犯科帳 7』文春文庫, 新装版, 2000年6月
『鬼平犯科帳 8』文春文庫, 新装版, 2000年6月
『鬼平犯科帳 9』文春文庫, 新装版, 2000年7月
『鬼平犯科帳 10』文春文庫, 新装版, 2000年7月
『鬼平犯科帳 11』文春文庫, 新装版, 2000年8月
『鬼平犯科帳 12』文春文庫, 新装版, 2000年8月
『鬼平犯科帳 13』文春文庫, 新装版, 2000年9月
『鬼平犯科帳 14』文春文庫, 新装版, 2000年9月
『鬼平犯科帳 15 特別長編 雲竜剣』文春文庫, 新装版, 2000年10月
『鬼平犯科帳 16』文春文庫, 新装版, 2000年10月
『鬼平犯科帳 17 特別長編 鬼火』文春文庫, 新装版, 2000年11月
『鬼平犯科帳 18』文春文庫, 新装版, 2000年11月
『鬼平犯科帳 19』文春文庫, 新装版, 2000年12月
『鬼平犯科帳 20』文春文庫, 新装版, 2000年12月
『鬼平犯科帳 21』文春文庫, 新装版, 2001年1月
『鬼平犯科帳 22 特別長編 迷路』文春文庫, 新装版, 2001年1月
『鬼平犯科帳 23 特別長編 炎の色』文春文庫, 新装版, 2001年2月
『鬼平犯科帳 24 特別長編 誘拐』文春文庫, 新装版, 2001年2月
『乳房』文春文庫, 2008年2月
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