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新・日本の外交

新・日本の外交 地球化時代の日本の選択』入江 昭(著), 中公新書,1991年1月


この本は1966年に書かれた『日本の外交 明治維新から現代まで』入江 昭(著), 中公新書, 2007年3月の続編に当たる。同じ著者により25年後に書かれたものである。外交史とはとりもなおさず日本の辿ってきた歴史そのものだ。なぜならば日本は海外との交流なくして自らの存在理由を示すことができないからである。

本書においては前著の著された1966年から1991年までの現代史に特に注目した。

不思想性の克服

入江 昭氏が前著で示した日本外交史の特徴として「不思想性」を批判点として挙げていた。果たして日本はこの課題を克服できたのであろうか。

明治維新以降の武力中心主義が災いを齎したとの反省から、経済政策により世界に貢献するとの考え方を国民がみな支持した。思想性といえるかどうかは未詳ながら、日本人のひとつの行動規範になっていたことは確かである。若い労働力に溢れていた日本人は元来からの勤勉性とあいまって、経済分野でもう突進を見せる。ところが、電子や自動車等の分野は元来アメリカの得意としていた分野だが、この分野は瞬く間に日本が市場を独占する。

1970年台のアメリカとの経済摩擦は、基本的にはアメリカが新しい産業構造に適応できなかったことが原因なのであり、日本の市場の閉鎖性が問題なのではない。オレンジや牛肉を日本がアメリカから購入しなかったのは市場が閉鎖していたからではなく、日本国内が不況で、アメリカのように豊かな市民生活を享受する余裕が無かったというのが実情である。アメリカは「双子の赤字」を抱えているといいつつも、ローンを組んででも、豊かな生活をエンジョイできるだけの余裕があったのである。

経済中心主義による世界への貢献は確かに平和的に国際社会に貢献する一手段であることは確かであるけれども、それを以って、信頼できる日本、一目置かれる存在であったかと言われれば、やや物足りない。「アメリカ」という国を聞いたときに人が連想する「自由の国」とか「人権尊重主義」といった誰でも受け容れられるような、尊敬すべきもの、そういった思想性が、やはり日本は前面に押し出すことが苦手だったのである。


それでは、日本は果たしてどこに思想性を求めるべきなのか。

本書では大平首相が提唱したとされる「文化主義」という言い方に触れている。この考え方は日本独自の伝統美とかいまどき流行の「おもてなし」といった日本の美徳を前面に押し出す考え方であろう。

ただ、ここで注意しなければならないのは、価値観の押し売りである。果たしてその価値観は相手の国と人にとって、利益のあるものであるかどうか。

私は最近フランス出身の方と話す機会があるのだが、フランス人は日本人の美徳観念との共通点が非常に多い、とのことである。

ここで注意すべきは、たとえば日本の「アニメ」が優れているからといって、日本のアニメで表される様式は日本固有のものであるといった言い方をしてはならないだろう。それは日本人の「特殊性」を強調する言い方であって、海外の人には嫌われるもの言いだ。私たちが推し進めるべきなのは、アニメを例に取れば、日本のアニメによって表現されたポップな表現形式や価値観が、日本以外の方にも同じように共感を得られる、世界共通の価値観に訴求するものだ、とみなすべきなのである。一国に依存しない世界共通の価値観を日本人が明確な形で支持していれば、思想性というものに近づくと私は考えている。

ただ、これは一朝一夕でできるものではないだろう。たしかに日本は奈良・平安以降の伝統美についての蓄積は内面にあるとはいうものの、外国と接触を開始したのは西暦1800年台の中ごろ以降に過ぎないのだ。日本的な思想性ともいえる文化的をはぐくんだ1000年の歴史を世界に広げ、この世界観が共有されるようになるには、すくなくとも、同じ時間は必要だ。1000年単位の国家事業と位置づけなければならない。

この課題については現在進行形で対応中と考えたい。

現実的課題
冷戦構造は大幅に変化した。ソ連はゴルバチョフ時代に解体し、現実路線へと舵を切ったが、ソビエトの国内では現在でもゴルバチョフは至極評判が悪い。メドベーチョフ・プーチンら「強いソビエト」への要望が強い。西側メディアはいまでもソビエトの帝国主義に対する警戒が強く、バランスを欠いている。

一方で世界の警察としてのアメリカの地位は低下する一方である。アメリカ中心主義以外省みないその考え方にやはり問題がある。


1991年以降
本書は1990年11月に脱稿されたものである。すでに25年が経過している。この25年をどのように判断するかは、これを読む読者それぞれの宿題ではあるけれども、入江 昭氏におかれては、是非、新しい版を世に問うて欲しいとおもう次第である。




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Kiankou books review

『日本の外交 明治維新から現代まで』入江 昭(著), 中公新書, 2007年3月
新・日本の外交 地球化時代の日本の選択』入江 昭(著), 中公新書,1991年1月


この本は1966年に書かれた『日本の外交 明治維新から現代まで』入江 昭(著), 中公新書, 2007年3月の続編に当たる。同じ著者により25年後に書かれたものである。外交史とはとりもなおさず日本の辿ってきた歴史そのものだ。なぜならば日本は海外との交流なくして自らの存在理由を示すことができないからである。

本書においては前著の著された1966年から1991年までの現代史に特に注目した。

不思想性の克服

入江 昭氏が前著で示した日本外交史の特徴として「不思想性」を批判点として挙げていた。果たして日本はこの課題を克服できたのであろうか。

明治維新以降の武力中心主義が災いを齎したとの反省から、経済政策により世界に貢献するとの考え方を国民がみな支持した。思想性といえるかどうかは未詳ながら、日本人のひとつの行動規範になっていたことは確かである。若い労働力に溢れていた日本人は元来からの勤勉性とあいまって、経済分野でもう突進を見せる。ところが、電子や自動車等の分野は元来アメリカの得意としていた分野だが、この分野は瞬く間に日本が市場を独占する。

1970年台のアメリカとの経済摩擦は、基本的にはアメリカが新しい産業構造に適応できなかったことが原因なのであり、日本の市場の閉鎖性が問題なのではない。オレンジや牛肉を日本がアメリカから購入しなかったのは市場が閉鎖していたからではなく、日本国内が不況で、アメリカのように豊かな市民生活を享受する余裕が無かったというのが実情である。アメリカは「双子の赤字」を抱えているといいつつも、ローンを組んででも、豊かな生活をエンジョイできるだけの余裕があったのである。

経済中心主義による世界への貢献は確かに平和的に国際社会に貢献する一手段であることは確かであるけれども、それを以って、信頼できる日本、一目置かれる存在であったかと言われれば、やや物足りない。「アメリカ」という国を聞いたときに人が連想する「自由の国」とか「人権尊重主義」といった誰でも受け容れられるような、尊敬すべきもの、そういった思想性が、やはり日本は前面に押し出すことが苦手だったのである。


それでは、日本は果たしてどこに思想性を求めるべきなのか。

本書では大平首相が提唱したとされる「文化主義」という言い方に触れている。この考え方は日本独自の伝統美とかいまどき流行の「おもてなし」といった日本の美徳を前面に押し出す考え方であろう。

ただ、ここで注意しなければならないのは、価値観の押し売りである。果たしてその価値観は相手の国と人にとって、利益のあるものであるかどうか。

私は最近フランス出身の方と話す機会があるのだが、フランス人は日本人の美徳観念との共通点が非常に多い、とのことである。

ここで注意すべきは、たとえば日本の「アニメ」が優れているからといって、日本のアニメで表される様式は日本固有のものであるといった言い方をしてはならないだろう。それは日本人の「特殊性」を強調する言い方であって、海外の人には嫌われるもの言いだ。私たちが推し進めるべきなのは、アニメを例に取れば、日本のアニメによって表現されたポップな表現形式や価値観が、日本以外の方にも同じように共感を得られる、世界共通の価値観に訴求するものだ、とみなすべきなのである。一国に依存しない世界共通の価値観を日本人が明確な形で支持していれば、思想性というものに近づくと私は考えている。

ただ、これは一朝一夕でできるものではないだろう。たしかに日本は奈良・平安以降の伝統美についての蓄積は内面にあるとはいうものの、外国と接触を開始したのは西暦1800年台の中ごろ以降に過ぎないのだ。日本的な思想性ともいえる文化的をはぐくんだ1000年の歴史を世界に広げ、この世界観が共有されるようになるには、すくなくとも、同じ時間は必要だ。1000年単位の国家事業と位置づけなければならない。

この課題については現在進行形で対応中と考えたい。

現実的課題
冷戦構造は大幅に変化した。ソ連はゴルバチョフ時代に解体し、現実路線へと舵を切ったが、ソビエトの国内では現在でもゴルバチョフは至極評判が悪い。メドベーチョフ・プーチンら「強いソビエト」への要望が強い。西側メディアはいまでもソビエトの帝国主義に対する警戒が強く、バランスを欠いている。

一方で世界の警察としてのアメリカの地位は低下する一方である。アメリカ中心主義以外省みないその考え方にやはり問題がある。


1991年以降
本書は1990年11月に脱稿されたものである。すでに25年が経過している。この25年をどのように判断するかは、これを読む読者それぞれの宿題ではあるけれども、入江 昭氏におかれては、是非、新しい版を世に問うて欲しいとおもう次第である。




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『日本の外交 明治維新から現代まで』入江 昭(著), 中公新書, 2007年3月
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Kiankou

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